【ニューイヤーコンサート2024解説】ブルックナーを引っ提げてティーレマンが新年のウィーン音楽界に再登場
【解説】若宮 由美(op.257)
ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任するクリスティアン・ティーレマン(1959-)が戻ってきます。以前にウィーン楽友協会で彼によるブルックナーの交響曲8番をウィーン・フィルで聴いたことがあります。驚いたのは彼の音楽の描き方ばかりでなく、聴衆の熱狂する姿でした。今年はブルックナー生誕200年にあたり、いままで聴いたこともない舞曲で登場です。
カール・コムザーク2世:アルブレヒト大公行進曲op.136
Karl[Karel] Komzák junior: Erzherzog Albrecht-Marsch, op.136
献呈者はアルブレヒト大公。アルベルティーナの銅像の人物。プラハ生まれのコムザーク2世は1882 年にウィーンの第 84 歩兵連隊の軍楽隊長に就任。舞曲や行進曲で名を馳せます。同曲は1887年4月25日に陸軍勤務60周年記念祭で初演。ひじょうに愛好された曲で第一次・第二次大戦でドイツの行進曲として、とくにUボートの発着の際に演奏。
ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ〈ウィーンのボンボン〉op.307
Johann Strauss (Sohn): Wiener Bonbons, Walzer, op.307
1866年1月28日、王宮のレドゥーテンザールで技術家協会の主催する祝祭舞踏会で初演。同舞踏会のパトロンは当時パリ駐在のオーストリア大使夫人パウリーネ・メッテルニヒ。パリ、ウィーンの芸術分野で腕をふるった人物で、ヴァーグナーらのパトロンとしても有名。この舞踏会の結果、翌年のパリ万国博覧会に参加しようとする意向も高まりました。
ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・フランセーズ〈フィガロ・ポルカ〉op.320
Johann Strauss (Sohn): Figaro-Polka, Polka française, op.320
1867年はパリで万国博覧会が開かれ、ヨハン2世は万博会場近隣で演奏会を開きたいと考えていました。前年の謝肉祭にドスモン侯爵がウィーンを訪ねたことで具現化。実際にはシュトラウス楽団ではなく、ビルゼの楽団と契約を締結。この楽団は後のベルリン・フィル。パリで演奏会を開くのですが、初めは入りが芳しくなく、対応策としてパリの雑誌『ル・フィガロ』の編集長ヴィユムサンを味方につけることに成功しました。同曲はその感謝をこめた曲です。パリのセルクル・アンテルナシオナルで1867年7月30日に初演。
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世:ワルツ〈全世界のために〉
Joseph Hellmesberger (Sohn): Für die ganze Welt, Walzer
ヘルメスベルガー2世は愛称「ペピ」と呼ばれています。1901年から2年間はマーラーの後任としてウィーン・フィルの首席指揮者を務めました。晩年は女性スキャンダルにより順風満帆だった人生は崩れ、いまだ研究も進んでいません。このワルツはバイエルン州立図書館にオーケストラの手稿譜(パート譜)が残されていたもので、1903年の年号が書かれています。堂々とした序奏によって始まり、伝統的なワルツへとつながります。
エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル〈ブレーキかけずに〉op.238
Eduard Strauss: Ohne Bremse, Polka schnell, op.238
この曲は作曲の経緯と初演がわかりません。初版は1886年。演奏記録は1885年12月8日にリンツのフォルクスガルテンで第84歩兵連隊ヘッセン大公によると記されています。しかし、演奏団体がシュトラウス楽団でなく、演奏地がウィーンではない点に疑問が残ります。その上、この題名は鉄道と切っても切れないと思われます。そこで目につくのが1885年2月5日にゾフィーエンザールで開かれた鉄道舞踏会。しかし、同舞踏会で初演されたと記されている曲は、唯一、楽団長クラールのポルカ・シュネル〈3つめの鐘の音〉op.96だけで、エドゥアルトの名も、シュトラウス楽団の名も記されていません。
ヨハン・シュトラウス2世:オペレッタ《くるまば草》序曲
Johann Strauss (Sohn): Ouvertüre zur Operette "Waldmeister"
1895 年 12 月にアン・デア・ウィーン劇場で《くるまば草》は初演。ハーブの一種である「くるまば草」(=ほれ薬)は、本来、白い花を咲かせますが、新種の黒い花が騒ぎを巻き起こします。初演日にはヨハン2世が序曲の指揮を行い、その後の3幕はアドルフ・ミュラー2世が行いました。序曲の単独演奏は、ウィーン楽友協会で1895年12月8日に行われた「日曜コンサート」。演奏会はエドゥアルトの慈善公演でしたが、休憩前の盛り上がったところでヨハン2世が登場し、この曲の指揮をしました。ブラームスが、このワルツの対旋律を書き込んだという話は逸話というべきものでしょう。
ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ〈イシュル・ワルツ〉遺作ワルツ第2番
Johann Strauss (Sohn): Ischler-Walzer, Nachgelassener Walzer Nr. 2
1899年6月3日に肺炎になって死亡しましたが、その後も新作の発表は続きました。1900年11月18日、アドルフ・ミュラー2世によって完成されられたワルツはウィーン楽友協会の黄金ホールで初演。翌日の『新自由新報』では「このワルツは彼が残したものの中で一番優れているもの。各部分は旋律的で極上の楽器法で書かれている。指揮者のコムザークは嵐のような熱狂によりアンコールしなければならなかった」とあります。同曲はザルツカンマーグートのバート・イシュルの地を称賛した作品で、皇帝一家などもこぞって夏の別荘を構えたところです。もちろんヨハン2世もその一人でした。
ヨハン・シュトラウス2世:〈ナイチンゲール・ポルカ〉op.222
Johann Strauss (Sohn): Nachtigall-Polka, op.222
1850年代にはヨハン2世は夏の間にロシアのパヴロフスクで指揮をする契約を結んでいました。1859年は3月頃から神経の病気のために謝肉祭からも距離を置いていた上に、オーストリア軍が4月29日にサルデーニャへ宣戦布告したため、それを口実にロシア行を延期。それでも5月1日にウィーン郊外のウンガー・カジノで「さよなら演奏会」を開きます。過去には新作のワルツでしたが、この年は同ポルカが初演されました。この居酒屋はナイチンゲールが鳴くのにぴったりの場所でした。様式的なポルカではなく、2/4拍子のリズムの中に管楽器奏者の妙技を鳥の羽ばたきや鳴き声を模倣させています。
エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・マズルカ〈山の湧水〉op.114
Eduard Strauss: Die Hochquelle, Polka mazur, op.114
1873年にウィーンは万国博覧会を開きます。大勢の人がウィーンを訪れるために、上水道の整備が重要となり、同案を構想したのがジュース博士。万博が終盤に差し掛かった10月にウィーン南西に位置するラックス-シェネーベルクの山地からウィーンへと新鮮な水を供給する第一湧水管が開通。これにより蛇口をひねるだけでアルプスの水が飲めました。エドゥアルトはこの機会に同曲を作り、1874年2月9日にディアナザールで初演。1911年にジュース博士のための銅像が作られたのを機に、同曲が同博士に献呈されました。
ヨハン・シュトラウス2世:〈新ピチカート・ポルカ〉op.449
Johann Strauss (Sohn): Neue Pizzicato-Polka, op.449
1893年1月に《ニネッタ侯爵夫人》がアン・デア・ウィーン劇場で初演され、同曲は始めは子どものバレエ、次に間奏曲として演奏。単独の演奏会はドレーアーで1月15日。しかし、前年のヨハン2世の手紙に「4月2日土曜。親愛なるエドゥアルト!君のハンブルクで行う演奏会のために新ピチカート・ポルカをスケッチした」とあります。1892年にエドゥアルトはハンブルクに演奏旅行していますが、同地で同曲を演奏した記録はありません。中間部の鉄琴とトライアングルの使用は軽快で、音楽的内容は深くなっています。
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世:バレエ《イベリアの真珠》から〈学生音楽隊のポルカ〉
Joseph Hellmesberger (Sohn): Estudiantina-Polka aus dem Ballett "Die Perle von Iberien"
ウィーン宮廷歌劇場でバレエ音楽監督であった「ペピ」は1902年4月7日にバレエ《イベリアの真珠》を初演。これは3景から成るバレエで、台本は主役を演じたダンサーのシローニ、振付は宮廷歌劇場のハスライターが担当。ロマ(ジプシー)娘のパキータがスペインでひとりの学生と恋に落ち、横槍を入れる総督と一悶着を起こす物語です。同曲はパキータが貝に乗っての旅行の最中、つまりは第2景から第3景への間奏曲で、コケティッシュで短く軽快な音楽です。弦楽器は大抵、ピチカートで奏します。
カール・ミヒャエル・ツィーラー:ワルツ〈ウィーン市民〉op.419
Carl Michael Ziehrer: Wiener Bürger, Walzer, op.419
同曲は1890年2月12日に市庁舎での初めて舞踏会で初演。1882年10月7日に完成式典が行われてから、ようやく開かれた舞踏会には2つの楽団が出演。ひとつはツィーラー率いるウィーン第 4 歩兵連隊、いわゆる「ホッホ・ウント・ドイチュマイスター」で、もうひとつはシュトラウス楽団。シュトラウス楽団の方がランクは上でした。この日に老齢のヨハン2世は〈美しく青きドナウ〉などを盛り込んだワルツ〈市庁舎舞踏会〉op.438を初演。一方の同曲は当時流行していたウィーン風ではないものの、人気を呼びました。
アントン・ブルックナー:カドリーユWAB121(管弦楽版W. デルナー)
Anton Bruckner: Quadrille, WAB 121 (Orchestr. W. Dörner)
ブルックナーは交響曲と教会音楽で知られ、舞曲とは縁遠い存在。同曲は1854年頃のピアノ4手作品。彼がザンクトフローリアン修道院のオルガニスト・教師をしていた頃の作品。出版は1928年と遅く、筆者譜でザンクトクレムスミュンスター修道院に伝播したようです。献呈者にはザンクトフローリアン修道院審判官のゲオルク・リュッケンシュタイナーで、実際にはピアノのレッスンをしていた、その娘のマリーのために書かれたと思われます。管弦楽用編曲は、ウィーン・ヨーゼフ・ランナー協会のW. デルナー(1959-)です。
ハンス・クリスティアン・ロンビ:ギャロップ〈あけましておめでとう!〉
Hans Christian Lumbye: Glædeligt Nytaar!, Galopp
デンマークの作曲家ロンビは、1843年にコペンハーゲンで遊技施設「ティヴォリ」が創設されると音楽監督を務めます。ウィーンのヨハン1世やヨーゼフ・ランナーが流行した時代であったため、その影響下にあったロンビは「北欧のヨハン・シュトラウス」と呼ばれます。同曲は1849年に《クリスマスと新年》という4曲から成る組曲の最後の作品で、1849年12月17日にカジノ劇場のクリスマス・コンサートで初演されました。
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ〈うわごと〉op.212
Josef Strauss: Delirien, Walzer, op.212
1866年にケーニヒツグレーツでの敗戦で1867 年の謝肉祭は盛り上がりに欠けました。その中で最初の舞踏会が1 月 22 日にゾフィーエンザールで開かれます。愛らしいワルツを指揮したヨーゼフには多大な称賛が与えられました。題名は主催者から授けられたもの。ヨーゼフは伝統的なウィンナ・ワルツに憂鬱な序奏を付け加えていますが、これは影響を受けていたヴァーグナーの器楽法とみられます。神経質なトレモロと頻繁な転調、減7の和音の連続で、聴いている人にも題名の正当性を意識づけるようになっています。
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル〈騎手〉op.278
Josef Strauss: Jockey-Polka, Polka schnell, op.278
競馬好きのヨーゼフは1870年3月13日に落成したばかりのウィーン楽友協会黄金ホールで初演。3兄弟が揃っての慈善演奏会の日。ギャロップのような軽快なリズムが特徴です。