日本ヨハン・シュトラウス協会
The Johann Strauss Society of Japan

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小さな花束(3)
昨今、いわゆるもりかけ問題をきっかけに、「忖度」なる語がすっかりお馴染みになり、日常的な言葉に成り変わりつつあるようだが、今回はヨハン・シュトラウスに忖度した話を一つ。

アン・デア・ウィーン劇場
前々回に取り上げたオペレッタ「ヤブカ」の上演にまつわる出来事である。初演を行うアンデアウィーン劇場のディレクターのアレクサンドリーネ・シェーネラーが、初演の指揮を引き受けているアドルフ・ミュラーに、ある相談を持ち掛けた。第2幕が終わって、第3幕に入るところで、シュトラウス自身に指揮台に登場してもらおうというのだ、まさにサプライズを狙った提案である。

しかもなんとそれが、初演当日、1894年10月12日の朝のことだ。すぐに手下を遣るから当該のスコアをシュトラウスに送ってほしいと願い出ている。ただ第3幕のクープレの伴奏が気がかりなので、これが果たして実行可能かどうか、正直な気持ちを私に伝えてほしいと、但し書きが付けられてはいた。

どうやら前夜のゲネプロが非常にスムーズに進行したのをシュトラウスが満足そうに眺めていたので、自ら指揮する気になっているらしいと、シェーネラーがそれこそ忖度したのだ。実際はシュトラウスが拒否したので、この構想は幻に終わった。「シンプリチウス」を最後に、初演ではもう自分自身が指揮台に立つことはなかった。ただ序曲だけは自ら振った例として「くるまば草」があるが。

シェーネラーはこの試みが駄目なら、上演の終わりにミュラーが舞台にシュトラウスを招き寄せれば、センセーションを巻き起こすだろうと付け加えている。実際はまさにそのようになった。翌日の新聞には、カーテンコール、拍手の嵐、花束、月桂冠、涙、喜びの涙と連呼するように記載してあり、その祝福ぶりが伝ってくる。三日後の10月15日にデビュー50周年を祝う大々的な催しが準備されていたことも、この歓迎ムードに関係していよう。

しかしシュトラウス自身の心境はどうであったのだろうか。上演当日、即お礼の手紙をかのジラルディに書いている。「どのオペレッタでも貴方の役が決め手となる。台本作家も作曲家も目じゃない」とジラルディを称賛し、同時に「私の台本はもういびきをかいている、私の駄作の予測はつかない」と断言し、半ばあきらめの境地にすでになっている。

ただ、その一週間後の手紙には、「台本は輝いてはいなかったが、言うほど悪くはない。私一人をスケープゴートにしてかまわないよ。でも、かなり成功したオペレッタでもひどい音楽を聴かされたことがあるがね、無遠慮な言い方だけど」と自虐と自負が交錯した語り口になっている。ステージでの大喝采は内心複雑であったかもしれない。
小さな花束(2)
ヨハン・シュトラウスの最初のオペレッタは「インディゴと40人の盗賊」だが、なぜ「アリババ」でなく「インディゴ」なのだろうと前から不思議に思っていた。しかも台本の筋書には、アリババも登場するにもかかわらず、である。 当初の契約ではやはり「アリババ」であったらしい。しかし、土壇場になって「インディゴ」に変わったのだ。

理由は、どうやらアリババでは舞台効果が薄いと判断したことによるようだ。ウィーンで喜劇仕立てにして上演するには、気まぐれな王様の役柄が必要だったのだ。それがインディゴ王である。 そういえば「アラビアン・ナイト」の原作でも、確かに「開け、胡麻!」の呪文の掛け声を盗み聞きし宝を発見するのはアリババだが、そのあとの話の展開では機転を利かせて盗賊を退治し、首領も含めて皆殺してしまうアリババの下女で奴隷のモルジアナの存在がもっぱら光っている。その功績のお蔭でモルジアナは奴隷身分から解放され、しかもアリババの養子(実は甥で、盗賊に殺された兄カシムの子)の嫁となるという結末が付く。

なるほど、だからオペレッタの中では40人の盗賊を撲滅する役目はモルジアナからインディゴ王に移っているわけだ。その他も大幅に改編している模様で、例の胡麻の呪文は、インディゴ王のお気に入りで舞姫のファンタスカが意のままにする。さらに40人の盗賊は踊り子グループに異化している。そう言えば、このオペレッタからの作品である、ポルカ・シュネル「インドの舞姫」Op.351を想起してみると納得されよう。

しかし、なぜ王様の名が「インディゴ」なのだ。インディゴとは英語で藍のことである。インド木綿と言ったら、薄地で独特の藍色が映えて18~19世紀の西欧貴族の婦人を魅了した。つまり最高級の染色剤といったところから王様の名前にふさわしいと考えたのではないか、とはシュトラウス研究家のリンケ博士の言である。 よく言う産業革命とは、木綿工業が花形で、インド木綿を真似て機械仕立てにし、国産化に成功したことにその本質がある。産業革命で先行したイギリスは、インドにインディゴ・プランテーションを拡張して輸入し続け、世界中に英国製の木綿を普及させたのだ。

インディゴはもちろん青い。「青い」はドイツ語で酔っ払いの意味もあるそうだ。なにしろインディゴ王は、女は美しさの程度で、男は賢さの程度で課税してしまうというほどのはちゃめちゃぶりを発揮するから、このことからも名付け方がなるほどと思わせる。 また「青い」は童話の「青髭」を連想させる。次々に妻殺しを実行するキャラクターは、40人の盗賊を殺していく話に投影されているかもしれない。 またディレクターのマクシミリアン・シュタイナーは、インディゴ王に当初は詩人としての側面も与えようとしていた。19世紀ドイツ・ロマン主義文学を代表するノヴァーリスの「青い花」を意識したものと思われる。劇中、実在のドイツの詩人アーデルバート・フォン・シャミッソーをモデルにしたと思われる、シャメリオなる詩人と対話する場面も登場する。しかし初演後はその部分は削除されてしまった。

まあ、どうやらこのように「インディゴ」なる題名は、様々な要素が凝縮されていることで採用に至ったということが分かる。
小さな花束(1)
オペレッタ「ヤブカ」の完成が間近であった1894年の初夏のこと、ヨハン・シュトラウスは愛用の時計をなくしてしまった。なんと「フレムデン・ブラット」など複数の新聞広告にその旨を載せ、拾い主には謝礼金まで贈呈するというのだから、相当思い入れのある時計であったようだ。

「ホイマルクトの造幣局の前で紛失、時計のナンバーは21496で、イニシャルはJ.S.、製品の型はアンディマーのブラスースで・・・・、50フローリンの謝礼用意、イーゲル小路の自宅へ連絡されたし」といった調子である。

効果てきめん、一月ほどして拾得者が現れたのだ。だが、その人物からシュトラウス宛に二度ばかり手紙が届き、倍の100フローリンを要求してきた。シュトラウスは詐欺師だと思い、返事を書かなかった。

その頃シュトラウスは保養地のバート・イシュルに滞在していた関係上、この件の処理をウィーンの親友ヨーゼフ・プリースターに任せていた。プリースターがその当人に会いに行ったら、どうやら物乞いであったようで、「詐欺師ではないが、プロの乞食だ」と手紙でシュトラウスに伝えている。プリースターは、「時計はすぐ送るべきだ、警察に知らせれば君の拘束は免れないぞ」とやや脅したようで、すると当人は「手紙を出したのに返事をくれない、シュトラウス自身の喜ぶ姿を見たいんだ」と憧れを語ったそうである。哀れに思ったプリースターは50フローリンを手渡し、「それは無理だが、シュトラウスには必ず伝えるから」といって別れた模様である。こうしてこの件は落着した。

ところでその間、シュトラウスは内心、完全にあきらめていたらしい。でも万が一戻ってきたら喜びの表明として、アデーレ夫人に100フローリン、義理の娘アリスに50フローリン、そして女中のアグネスにも10フローリンをあげると約束してしまったから大変である。「早く頂戴よと」アデーレとアリスにはせがまれたようで、シュトラウスは「時計の取戻しは、ずいぶん高くついたものだな」とプリースターへの礼状でぼやいてみせた。
小宝塚ベガホールのヨハン・シュトラウス像
宝塚市にある像
宝塚歌劇と温泉で知られる兵庫県宝塚市にヨハン・シュトラウス2世の像があります。

 宝塚はもともと閑静な温泉地でしたが、大正初めに阪急電鉄の創始者小林一三(こばやし・いちぞう)が阪急電車の利用客を増やすため博覧会場やプールなどの娯楽施設をつくったことをきっかけに発展しました。
小林は宝塚に劇場をつくって少女たちによる歌劇を上演させましたが、これが後に有名な宝塚歌劇となりました。現在も武庫川のほとりに宝塚歌劇の本拠地となっている大劇場が建っています。

宝塚市は1994 年10 月にウィーン市第9 区(アルザーグルント区)と姉妹都市の提携を結び、以来両市の間で交流活動が続けられています。ウィーン市第9 区にはオペラファンにはよく知られたフォルクス・オーパー(歌劇場)があり、「劇場の町」という共通点が両市提携の理由の一つになったようです。

そうした縁で2002年3月にウィーン市から寄贈を受け、宝塚市の音楽専用施設ベガ・ホールに設置されたのがこのシュトラウス像です。
像はホールの玄関脇に銀色に輝いて立っており、ヴァイオリンを弾いているその姿はウィーンの市立公園にある有名な像と同じスタイルです。

ベガ・ホールは阪急宝塚線清荒神駅のすぐ側、市の中心部からは少し離れた住宅地にあって市立図書館との複合施設になっています。約370 席で「小さくても響きの良いコンサートホール」を理念に1980 年8 月にオープンし、煉瓦作りのユニークな美しい内装が施され、パイプオルガンも設置されています。国際交流の一環としてウィーンからやって来た演奏家によるコンサートもしばしば開かれているようです。
シュトラウス・ピアノエディション
当協会の発足当初、シュトラウス・ピアニストとして活躍し、現在米国在住の小田川隆朗氏(Otagawa Takaaki)が英国ヨハン・シュトラウス協会とのコラボでレコーディングを始めました。 エドゥワルト・シュトラウスのいまだ一般に紹介されていない未録音の約200曲を録音する予定で、すでに3巻が完成しています。(3巻の曲目リストはこちらをご覧ください)

エドゥワルトの作品は兄のヨハン、ヨーゼフに劣らず魅力的なのに、なぜか不当に低く評価され続けて来ました。これを聴かないでいるのはシュトラウス一家の愛好家としてあまりにも勿体ないことです。ヨハンやヨーゼフのようにフルオーケストラで全曲を聞くことが当分望めない現在、このプロジェクトは貴重な試みかと思います。

小田川氏の演奏は、ウインナワルツ特有の三拍子のリズムの取り方をはじめ、テンポや節回し、強弱の付け方すべてに亘って「シュトラウスになっている」と多くの関係者が絶賛しています。聴いていて曲の途中で違和感を覚えることがまったくなく、最後まで自然と耳に心地よく届くのです。

詳しい内容およびCDの購入に関しては下記のウェブサイトをご覧下さい。

www.StraussPianoEdition.com 
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CDは1枚US$10+郵送費です。PayPal Checkoutでクレジットカードでの支払いが可能です。
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