日本ヨハン・シュトラウス協会 19世紀舞踏研究会
The Johann Strauss Society of Japan Vintagedance Society

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シュトラウスと栄一、パリ万博
「青天を衝け」公式画像
大河ドラマ「青天を衝け」はご覧ですか。

 渋沢栄一が主人公で、ドラマの解説によると若き栄一がパリ万博に触れ、その後大活躍するそうです。これはもうシュトラウスファンとしては見逃せません。日本のシュトラウス好きの間では有名なロマン掻き立てるエピソードに出会えるかも、と毎回密かに期待して観ています。

日本の西洋舞踏音楽黎明期をたどると必ず文久使節や慶応使節等に行き当たります。将軍弟、徳川昭武(14歳)を代表にして栄一も随行した慶応使節団は1867年パリ万博へ出展のため彼の地に赴きます。そこで同国内の薩摩藩(肥前、琉球も含む)の暗躍に遭い幕府としては耐え難いものとなりました。

それでも、ナポレオンIII世の謁見式で大パレードをすれば群衆が殺到し、すでに何度目かの日本人とはいえ、集合写真を見れば立派なサムライ姿で娯楽の少ない時代では大人気。それに対し日本側はまんざらでもないようです。
 使節はフランスの様々な場(工業、金融、軍、芸術)をめぐり、後の日本近代化におおいに役立てました。使節はその他の国も訪問していますが今回はフランスを中心とします。

パリ滞在中の昼はおおむね視察、夜はナポレオンIII世お得意の文化芸術接待。1867年5月4日、栄一・昭武一行は初めて外務大臣主催の舞踏会に招かれます。ここで栄一の感想は「男女とも盛装し歓談している。音楽に応じ相手の手を取り肩を並べて踊っている。そして互いに顔を見合わせ、利口か馬鹿かを察知して自ら相手を選び礼儀正しく、ごく自然に楽しんでいる」。
 一方、昭武の感想は「夜10時頃より人々が集い、噴水や自然の装飾でしつらえ、音楽を流し、男女数百人がごちゃまぜで踊る。これがフランスのもてなしか、日本では田舎の大酒宴だ」。
皇帝主催万博でのチュルリー宮舞踏会
当時日本は儒教思想などで男女の同席は一般的でなく、さぞカルチャーショックだったに違いありません。二日後の5月6日はチュルリー宮で皇帝主催の舞踏会です。栄一の感想「ここは席上に瀧など設け庭園はガス燈で明るく輝き、先日の外務大臣の催しと同様盛会だ」。とにかく日本人一行はどこの夜会にも引く手あまたでした。そしてもう1人の主役、シュトラウスもパリ万博目指して渡仏していました。メッテルニヒ、オーストリア大使夫人の支援もあり5月に大使館の舞踏会で指揮をします。

 また万博内のコンサート会場では、ビルゼとそのオーケストラで交互に演奏し、シュトラウスは「美しく青きドナウ」を管弦楽版で披露し大変な熱狂に包まれました。一躍時の人となり、それに眼をつけたイギリスに誘われ6月にはパリを後にします。
慶応使節団、総髪姿が多い
短い期間ですが、日本人とシュトラウス、ビルゼが同じパリ万博で結ばれたことは嬉しいことです。ある文久使節の記録では「自分の陪従がないときは、万博を見てまわった」とありますので、幕府の一行に限らず、薩摩藩、出展関係者などのだれかがシュトラウスの演奏、またはビルゼの指揮を見たことはたしかでしょう。

これらのことはいろんな資料に書かれていますが、やはりシュトラウスに注目があつまりビルゼの影が薄いのはちょっと気の毒。最近は彼の演奏もCD化され聴かれるようになりました、個人的にはポロネーズなどはなかなか荘厳でかっこいいと思いますが。大河ドラマはどこまでこのネタを扱う(またはスルー)か、シュトラウス好きとしては緊張する日々が続きます!

  参考文献:
    加藤雅彦「ウィンナ・ワルツ」
    岩田隆村「踊るミューズ」
    渋沢華子「渋沢栄一、パリ万博へ」
鹿鳴館と舞踏会
2020年、日本ヨハン・シュトラウス協会は創立45周年を迎えました。創立記念行事を予定していましたが、コロナウィルス感染拡大のため遺憾ながら延期になりました。その行事のなかで日頃活動しているサブグループ紹介があり、19世紀舞踏研究会は「鹿鳴館ダンスの考察」を行いました。

明治になる少し前の江戸末期から日本と外国の将来を考えた人々は、海外へ行き見聞を広めて戻りました。その見聞のなかに諸外国で人気のダンスも含まれ、帰国した人々は幾分習得して戻ってきていました。日本における西洋舞踏の黎明期はこのような茫洋としたものでしたが、とにかく外国人にはたいへん人気があることだけは掴んでいたようです。

それまでは、駐日外国人が居留地等で踊っていた舞踏・舞踏会を日本人(政府)主催で本格的に始めようとしたのが明治16年(1883年)晩秋に行われた鹿鳴館夜会でした。

フタを開ければ、踊れる日本人(とくにご婦人)がいないことが発覚し、これを危惧した外国帰りの高官たちが、翌年明治17年10月末から、毎週日曜午後6時より「東京舞踏会」というダンス練習会をスタート。
このとき獣医師として来日していたドイツ領ポーランド出身のヨハネス・ヤンソンを中心に、女性パートナーはアメリカ留学経験者の山川捨松、ピアノ伴奏は海軍軍楽隊ピアノ教師:アンナ・レールという講師陣で、第一回練習会が終了するやすぐに本番11月の天長節を迎えるなかなかハードなスケジュールです。

たった一度の練習で参加者が踊れるはすもないことは明白です。なお、今回はもっとも華やかな舞踏会だった天長節をおもに考察していきます。

その後も週一練習と数々の舞踏会が鹿鳴館で行われました。明治19年(1886年)第3回天長節夜会のダンスプログラムを見てみましょう。
舞踏講師ヤンソン
カドリール
ワルツ*
ランサース
ポルカ*
カドリール
ワルツ*


以上6曲がエントリーされていて、興味深いのがカップルダンス(*印)とセットダンスが半々です。カドリールなどのセットダンスはすでに踊り方(振り付)が決っているもので、それを覚えれば踊ることができる比較的やさしいもので、カップルダンスは相手が1人といえパートナーにより踊り方も違うためやや難しい踊りです。私たちの研究会でダンスを実践してみたところ、このような結果・結論になりました。

明治の女性は着物からほぼ始めての洋装に靴という装いの違いは戸惑ったことでしょう。そこからのダンス修練はかなりの苦労があったはずです。それでも、厳しい練習会続き、明治19年は連日連夜の舞踏会、ダンス漬けの日々でした。練習会の会員は130人を越え鹿鳴館ダンスの練習に触発された芸者衆が大森の八景園でイタリア人に毎土曜、洋装でダンスを習ったり、人手不足で女学生が舞踏会に借り出されたりとダンス熱が沸騰していました。

明治20年春、首相官邸でファンシーボール(仮装舞踏会)が行われ、伊藤博文首相夫妻はヴェネツィア貴族の扮装でしたが、それ以外の参加者はおおかた歌舞伎や日舞の日本物の仮装でお茶を濁す様相…。もともとシャイな国民性に反し、西洋化わずか20年で内容の伴わないこのような取り組みに着手したことは評価の割れるところではないでしょうか。そして毎夜舞踏会の無礼講で心身の麻痺した人、伊藤首相がブラームスに琴を披露したことで有名な美人の戸田極子伯爵夫人とのスキャンダルが新聞に報じられてしまいます。

マスコミに散々叩かれ、国民は不満と何も変わらない政治に鬱憤を募らせ爆発し、あれほどのダンス熱は一気に冷めていきました。「東京舞踏会」の会員も激減、6月には解散の憂き目にあい、外務卿で鹿鳴館を主導した井上馨も辞職し、ダンスをしていた日本女性たちは洋装を捨て着物に回帰しました。そしてかろうじて行われていた舞踏会は、外国人ばかりが踊り日本女性は奥のサロンにこもる状態が続きます。

明治21年、津田塾大創設者の津田梅子の招聘で来日したアリス・ベーコンの手記には「鹿鳴館で舞踏会があり、心ときめき参加したが男性ばかりで洋装の女性はほとんどいない」と残されています。

明治26年(1893年)、鹿鳴館での最後の天長節夜会が行われました。名称で言えばすでに華族会館と改名されていましたが、知名度の高い「鹿鳴館」は愛称として存続していたようです。このときの主催は外務大臣、陸奥宗光、亮子夫妻。さっそくダンスプログラムを見ます。
カドリール
ワルツ
ポルカ
カレドニアン
ワルツ
休憩
ワルツ
マズルカ
ランシェ
ワルツ
ギャロップ

明治19年はわずか6曲でしたが、7年も過ぎればカップルダンスが圧倒的に増え、これぞ「舞踏会」にふさわしい内容です。東京舞踏会は練習の成果を見事に発揮しました。わずか数名の踊り手から始め、カップルダンスで一番難しいマズルカまでプログラムに載せていることは成長の証をうかがえます。鹿鳴館での最後の夜会は参加した多くの人々の記憶に深く刻まれたことでしょう。

さて、このあと天長節の夜会は会場を帝国ホテルに移して開催されました。
ホテル創建当時の明治24年(1891年)から明治38年(1905年)まで天長節は行われましたが、約14年間に鹿鳴館で行われたり、日清日露戦争による中断、皇族の不幸などで実は9回ほどの開催に終わります。明治24年は2,000人の来場者も明治29年は1,200人になりそれも踊る人は外国人ばかり。もう少し下がり明治32年(1899年)でも邦人婦人の引き込みがちを遺憾する新聞記事が出る始末。明治34年(1901年)の新聞には昨年より和装の婦人客多い、しかし舞踏に加わった日本婦人多し、とのこと。
山川捨松 (大山伯爵夫人)
明治40年代に入ると鹿鳴館時代も終焉をむかえ、アールデコ期の大正時代へと移り変わります。この時代になるとヨーロッパより好景気に沸くアメリカが最新ダンスの輸入先になり、さまざまな人がダンスを享受する時代になりました。(了)

※この記事は、会報に掲載されたものを加筆修正したものです
参考文献:
  近藤富枝「鹿鳴館貴婦人考」講談社
  村山茂代「帝国ホテルの舞踏会(1891‐1926)」
舞踏協力:
  日本ヨハン・シュトラウス協会
  ヴィンテージダンス・19世紀舞踏研究会
日本海軍と音楽・ダンス
明治と共に日本にも西洋文化が花開きはじめますが、その当時真っ先に洋楽を取り入れたのが、陸海軍軍楽隊と宮内庁の雅楽部でした。本文では、海軍特に軍楽隊に焦点をあて、ダンスや音楽との関わりを、エッセイ形式でご紹介したいと思います。ヨハン・シュトラウスとはかけ離れた部分が多々ありますが、徒然にお読みいただければ幸いです。
薩摩軍楽隊
イギリスに”サツマバンド”と紹介された
海軍の音楽部分を専門に受け持った海軍軍楽隊は、明治四年に創設されました。元は薩摩藩の楽隊でしたが、陸海軍省の設置とともに海軍軍楽隊に形を変えます。英国陸軍歩兵十番大隊附き軍楽隊の楽長ジョン・フェントンを師とし、一隊の楽器配置・人員は、フリユート・ピツコロ・クラリネツト・フリユゲルホーン・トランペツト・ホーン・アルホーン・トロンボーン・ユーフオニオン・バス・ドラムの合計三十六名でした。
明治十七年の天長節鹿鳴館
軍楽隊派遣依頼
明治十二年には、ドイツ海軍軍楽隊のフランツ・エッケルトを傭聘し、軍楽の実地・学理を教授させ、翌明治十三年には、ドイツ婦人アンナ・レールをピアノ教師として傭聘、軍楽隊から十名を選抜して、ピアノの修行を積ませたのです。

鹿鳴館時代には、研究中(どちらかといえば練習中?)で、舞踏曲演奏が出来たのか?出来て三、四曲くらいでダンスの種類も少なかった、と海軍技術中将・澤は後年回想しています。そのような中、明治十七年十二月十一日付で、海軍軍楽隊一隊を鹿鳴館に派出依頼、という資料があり、鹿鳴館の奏楽を軍楽隊が担っていた一端を見ることが出来ます。
軍医大監・高木兼寛
明治十八年、芝に海軍の水交社(オフィサークラブ)が完成し、大食堂はダンスにもうってつけという事で、毎週土曜日にダンスをする事になりました。このダンスを推奨したのは、当時の海軍軍医部長、軍医大監・高木兼寛(慈恵医大の創設者。海軍から脚気を駆逐した人としても知られる)で、宮内庁雅楽部より楽師一名を招き、バイオリンにてダンス会を行いました。残念ながら演奏された曲は見当たりませんが、当時のプログラムの下書きによると、

ツーステップ
ワルツ
ポルカ
バーンダンス
カレドニアン
カドリール
ランサー
ギャロップ
カントリーダンス
メヌエット
スケーティング
コチヨン


と、12 種が用意されており、いろいろなダンスが踊られていました。鹿鳴館の下火と、海軍が繁忙になってきたため、水交社のダンス会も明治十九年に、廃止されてしまいます。

当時、演奏されていた曲はどんなものがあったのでしょうか。明治二十六年の舞踏会目録には、
蝙蝠歌劇抜萃幻想曲 (ヨハン・シュトラウス作 喜歌劇こうもり)
ライヒブルトの駆足曲 (ヨハン・シュトラウス作 浮気心のポルカ)
マリターナワルツ (デルリンゲル作)正装舞曲大序 (ルビスタイン作)
が載っており、フランスの海軍将校ロチの回想によると「江戸の舞踏会」では、
オッフェバッハ カドリール
ヨハン・シュトラウス 美しく青きドナウ
で、踊ったとの事です。この頃になると、軍楽隊のレパートリーもかなり増えてきていると予想されます。
エッケルトを軍楽隊に招致する通知
エッケルトがグスターフ・アルペに変わった時代もありましたが、軍楽といえばドイツという流れが出来た、と言えます。エッケルトは明治三十二年に職を解かれ、以降は日本人の手によって軍楽隊が指導されていくことになるのです。

上記のとおり軍楽隊は“吹奏楽”でしたが、転機が訪れます。明治三十五年にドイツへ音楽留学に行っていた軍楽師・吉本光蔵が帰国したのです。吉本は、エッケルトに将来を嘱望され、ピアノ・和声学・作曲編曲の手ほどきまで受けている、軍楽隊のホープでした。吉本は帰国後に、「軍楽隊にも弦楽を取り入れ、オーケストラを編成するべきである」と言い、その実現に向け運動を始めたのです。

またこの時期、日比谷奏楽堂が完成し、陸海軍の軍楽隊が交互に演奏をすることになりました。記念すべき一回目は、陸軍軍楽隊が担当し、演奏は以下となります。
明治38年8月1日 日比谷奏楽堂 指揮:陸軍軍楽隊楽長・永井建子
  行進 『日章旗』 永井建子作
  大序 『歩哨の警報』 クロドミール作
  歌劇 『ファウスト第一』 グーノー作
  ヴァルス 『安留術多』 アルヂチー作
  ポルガ行進曲 『タ・ラ・ラ・ボンデレー』セイニール作
  行進 『米国旗と永久』 スーザ―作
  大序 『ギユイヨーム テル』 ロシニー作
  歌劇 『タンホイゼル』 ワグネル作
  長唄 『老松』 戸山軍楽部曲作
  ヴァルス 『深森の会合』 ストラウス作
シュトラウスがエントリー!曲名の訳し方に当時の苦心の跡が偲ばれます。シュトラウスのワルツ「深森の会合」とは「ウィーンの森の物語」だそうです。

海軍の軍楽隊が初登場した記念すべき二回目は以下でした。
明治38年8月12日 日比谷奏楽堂 指揮:海軍軍楽隊楽長・吉本光蔵
  前衛隊 行進曲 オンド・ヒューム作
  加節 大序の曲 エワ・フオン・フロー作
  波 ワルツ 舞曲 ローザ―作
  歌劇 「ローヘングリン」の中の佳節抜萃曲 リヒアルド・ワグネル作
  長唄 舞鶴三番叟 海軍軍楽隊調曲
  華頓郵報 行進曲 スーザ―作
  歌劇 「藝奴」 抜萃曲 シドニー・ジョンズ作
  西班牙国トレド―市の舞曲 オード・シューム作
  長唄 越後獅子 海軍軍楽隊調曲
  夕立 ガロップ舞曲 ヨワン・シュトラウス作
トリはやっぱりヨハン・シュトラウス!ここまで来ると、曲名も一種の頭の体操になってしまいますが、ギャロップ「夕立」は「雷鳴と稲妻」の事と思われます。作曲家の名前、曲の種類の書き方もバラバラで読み解くのも一苦労です。「華頓郵報=ワシントンポスト」は珍訳です。「波」も、題名としてもう少し書きようがあったのではと感じます。
東京音楽学校に通う軍楽兵
以降、日比谷奏楽堂は、陸海軍軍楽隊が交互に演奏し、その腕を競うと共に洋楽を身近なものにする一翼を担ったのです。日露戦争の勃発や、音楽活動に関する軍の冷遇もあり、オーケストラの編成は遅れに遅れ、また強力な推進者である吉本の急死もありましたが、明治四十一年に、管弦楽団の編成が正式に認められ、ついに悲願のオーケストラ編成を目指す事になります。

オーケストラ編成にあたり、軍楽隊は三田に派遣所を開設、そこから委託生を東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)に派遣、バイオリンやチェロ等を習わせたのです。委託生の修学期間完了と同時に、軍楽隊は初のオーケストラ編成で、日比谷奏楽堂の演奏会に挑みます。その際のプログラムは以下。
明治43年7月13日 日比谷奏楽堂 指揮:海軍軍楽隊楽長・瀬戸口藤吉
  行進曲 「墺太利の鷲」 ワグネル
  歌劇序曲 「セライル城の誘惑」モザート
  円舞曲 「芸術家の生活」 ストラウス
  意想曲 「森中の水車」 アイレンベルグ
  舞踏曲 「ヘンリー八世」 ジャーマン
  歌劇序曲 「イヴェツト王」 アダム
  西班牙舞曲 「エスツヂアンチナ」トルド・トイフェル
  歌劇抜萃曲 「鵠の武士」 ワグネル
  ツーステップ舞曲「富豪娘」 フオール
  プログラム外アンコール 行進曲「軍艦」 瀬戸口藤吉
 
軍艦マーチの作曲者・瀬戸口藤吉
トリではないですが、安定のシュトラウスが演奏されております。曲名の難しさは相変わらずですが、ご興味のある方は是非、調べてみてください。

大正昭和に入ると、レパートリーが増え、チャイコフスキー・ベートーベン・ワルトトイフェル・スッペ・ショパン・メンデルスゾーン・ブラームス・レハール・イヴァノヴィチ・ハイドンなど、有名どころがおおいに演奏されるようになっていますが、逆にシュトラウスは演奏が減っていきます。レパートリーが増えた、という事も関係していると推測できますが、少し寂しいものですね。
余談ですが、昭和二十年に海軍が解体されたのち、海軍軍楽隊のOBは東京消防庁音楽隊の創設に尽力しました。意外ですが海軍軍楽隊の遺伝子は、東京消防庁音楽隊に多く受け継がれたのです。(了)

※この記事は、会報に掲載されたものを加筆修正したものです
  参考文献:
    針尾玄三「海軍軍楽隊 花も嵐も・・」近代消防社
    瀬戸口良弘「軍艦マーチ物語 作曲家・瀬戸口藤吉伝」南日本新聞開発センター
    池間博之「歴史的舞踏の系譜―中世・ルネッサンスよりバロック 19・20 世紀の舞踏」
    橋本勝見監修「日本洋楽史の原点 海軍軍楽隊 楽水会編」図書刊行会
    澤鑑之丞「海軍70年史談」
    中島武「明治の海軍物語」
    竹下可奈子「河合太郎軍楽長時代の呉海兵団軍楽隊における奏楽実態」
    塚原康子・平高典子「海軍軍楽長・吉本光蔵のベルリン留学日記」
帝王ミュザール パリ オペラ座仮面舞踏会を救う!
パリのオペラ座で仮面舞踏会が初めて開催されるのは、1716年オルレアン公フィリップによって発案され、大ヒットとなりますが、何ごとも過ぎたるは云々・・・となり、18世紀の風紀の乱れと革命により終焉を迎えてしまいます。

19世紀初めの1815年、ようやく一部が許され復活を遂げますが、過去の乱痴気を排除し、以前とは似ても似つかない仮装、ダンスなしの「オペラ座仮面舞踏会」がはじまります。

フィリップ・ミュザール
この禁止令のなか、女性は黒マントのようなドミノ服に半仮面、男性は素顔で仮装なし。単なる「仮面パーティ」と化しているではないですか!なんとこれが以後18年間続くのは、驚きです。しかも入場料は18世紀と同じ高価格なため客足は遠のくばかり・・・

1833年オペラ座の支配人はこれを憂い、ある男に舞踏会の運営件を譲渡します。ただし「仮装・ダンスなし、価格据え置き」の条件付きで。悩んだ男はついにひらめきます!当時ヴァリエテ座で大人気を博していたフィリップ・ミュザールを引き抜き、オーケストラを増員、バレエを導入したところ一夜に500人も詰めかける大成功を収めました。

1835年になるとオペラ座の支配人がかわり、男はさらに交渉を続け、ついに仮装・ダンス解禁、しかも入場料半額の大盤振る舞い!

それから加速し、37年のカーニバルシーズンにはオペラ座にて「ミュザールの大舞踏会」というポスターがパリ中に貼られ、身分に関係なくだれでも参加できる伝説的な「ミュザールのオペラ座仮面舞踏会」の幕明けとなりました。仕掛け人の男もそうですが19世紀初頭には考えられない夢のような成功を手にした舞踏会は、ミュザールなくして語ることはできないでしょう。

仮装した人々に感謝され担がれた彼
舞踏会を盛り上げる演出にたけ、熱狂的な指揮振りとカドリーユを編曲することにかけては、彼の右に出る者はいませんでした。

ミュザールを知らないパリっ子はなく「ナポレオン・ミュザール」とあだ名され、舞踏会に彼を呼ぶことは主催者のステイタスでもあり、確実に当たる会として大変もてはやされました。

彼の大きな影響は、同時代の舞踏音楽家シュトラウスI世らにカドリーユを作るきっかけを与え、後のシュトラウスII世はあの「(パリ)オペラ座仮面舞踏会カドリーユ」op.384を作り、メトラやワルトトイフェルらがオペラ座舞踏会の指揮をし、20世紀初めガストン・ルルーが「オペラ座の怪人」を執筆したり、それがミュージカルになって今に続くのも、すべては帝王ミュザールがパリオペラ座仮面舞踏会を救ったおかげなんですね♪
© The Johann Strauss Society of Japan