【ニューイヤーコンサート2026解説】歴代の宮廷舞踏会音楽監督と女性作曲家を若手ネゼ=セガンが振る
【解説】若宮 由美(op.257)
カナダ人の若手ネゼ=セガンが登場します。ウィーンの宮廷舞踏会作曲家は初代ランナー、続いてシュトラウス家にその座が移り、ヨハン1世、ヨハン2世、エドゥアルトと繋いで、最後はツィーラー。その全員と女性作曲家が目玉です。ネゼ=セガンはメトロポリタン歌劇場の音楽監督。ウィーン・フィルとは2023年の夏の演奏会が印象に残っています。
ヨハン・シュトラウス2世:オペレッタ《インディゴと40人の盗賊》序曲
Johann Strauss Ⅱ: Ouvertüre zur Operette “Indigo und die vierzig Räuber”
「一昨日、大きな出来事が起こった。フランスが敗北したのだ…自由を熱望する高貴で偉大なフランスではない…軽薄なフランス、オッフェンバック氏のフランスが心を射抜かれたのだ…」(同オペレッタの新聞評)。1871年2月10日にアン・デア・ウィーン劇場で初演。序曲では「ワルツ王が書いた劇」といわれることを嫌い、ワルツの引用はなく、例外的なティンパニのピアニッシモで始まり、途中でポルカ・シュネル〈突進〉を響かせると、劇場中の拍手喝采が沸き起こりました。序曲は1871年の新年に王宮のゾフィー大公妃とルドルフ皇太子の居室で行われ、「とても満足である」という言葉を賜わりました。
カール・ミヒャエル・ツィーラー:ワルツ〈ドナウの伝説〉op.446
Carl Michael Ziehrer: Donausagen, Walzer, op.446
市庁舎完成から3年。1893年1月19日、皇帝出席のもとでウィーン市舞踏会が開かれ、同曲がドイチュマイスター楽団によって初演。熱狂的な拍手喝采が起こりました。ドナウ河沿岸諸国を描写するためにレントラーのメロディーを使い、彼自身のハンガリー狂詩曲〈失われた幸福〉、バイヤーのバレエ《ボスニアの結婚式》から「ボスニアの踊り」などが引用。スペイン国王アルフォンソ12世の未亡人マリー・クリスティーナ王妃に献呈。その父オーストリアのフェルディナント・カール大公も舞踏会の客として参加しました。
ヨーゼフ・ランナー:〈マラプー・ギャロップ〉op.148 Nr.1
Joseph Lanner: Malapou-Galoppe, op. 148 Nr.1
ランナーは1829年に初代「宮廷舞踏会音楽監督」に就任。1839年にインド出身の舞姫の一団が《ブラフマーの法、あるいはヒンドゥー教徒の未亡人》という劇の興行でヨーロッパ各地を巡行しました。マラプーとは「愛の踊り」。すなわち「羊飼いたちの春の到来への喜びと、この儀式の舞台となる農業の女神への感謝の気持ちを象徴する踊り」。同曲の初演は明確ではなく、「1840年1月22日に舞踏会場『黄金の梨亭』で新作のカドリーユとギャロップが初演される」という新聞があります。同曲か同じ作品番号の別曲の可能性があります。翌月にはメケッティ社が楽譜を出版。特徴は長調と短調が交互に呈示される点。
エドゥアルト・シュトラウス:ポルカ・シュネル〈暴れる小悪魔〉op.154
Eduard Strass: Brausteufelchen. Polka schnell, op. 154
1872年2月18日の『謝肉祭のレビュー』(楽友協会)のプログラムに同曲の名前があります。この日は「宮廷舞踏会音楽監督」の名称を兄ヨハン2世から受け継ぐ日でした。ただし、謝肉祭の間に予め演奏された可能性があり、題名の脇に「シュヴェンダーのコロッセウムにおける最初の仮面舞踏会」という書き込みもありました。1月3日のことです。
ヨハン・シュトラウス2世:〈こうもりカドリーユ〉op.363
Johann Strauss Ⅱ:Fledermaus-Quadrille. op. 363
《こうもり》はウィーン・オペレッタの最高傑作。同劇は1874年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演。しかし、ヨハン2世は初演後にすぐにランゲンバハ楽団を率いてイタリア旅行に出かけます。それゆえカドリーユがいつ編纂され、初演されたかはわかりません。同曲はオペレッタのモティーフを扱った作品。1910年12月にヨハン2世の甥ヨハン3世はシュトラウス楽団とともにエジソン社で蝋管録音を行っています。
ヨハン・シュトラウス1世:ギャロップ〈パリの謝肉祭〉op.100
Johann Strauss I: Der Karneval in Paris. Galopp, op. 100
1837年11月1日にパリのギムナーゼ・ミュージカルで初の演奏会を開催します。成功を収めた演奏会の最前列にはベルオーズ等、重鎮が並んでいました。彼は翌年までパリに滞在し、1月27日の仮面舞踏会で同曲を披露。初演当日には参加女性に楽譜が配られました。その成功をみて彼は楽譜をウィーンに送付し、2月12日にハスリンガー社から出版。『劇場新聞』は「フランスの活気とドイツの天才性が融合している」と評しています。
フランツ・フォン・スッペ:オペレッタ《美しきガラテア》序曲
Franz von Suppè: Ouvertüre zur Operette "Die schöne Galathée"
1864年にオッフェンバックがオペレッタ《美しいエレーヌ》で大成功したのを受けて、ウィーンの興行師トロイマンが「神話的な題材を女性の主役にして喜劇的に演じる」手法をウィーンに取り込もうと試みました。それは《美しきガラテア》で、1865年9月9日にカール劇場で上演しました。しかし、初演はドイツのベルリンでした。1865年6月30日に初演。この序曲は調性と拍子が目まぐるしく変わる楽曲です。
ヨゼフィーヌ・ヴァインリッヒ:ポルカ・マズルカ〈セイレーンの歌〉op. 13 [デルナー編曲]
Josephine Weinlich: Sirenen Lieder. Polka mazur, op. 13 [Arr. W. Dörner]
ヴァインリッヒ(1848~87)は女性オーケストラで初めて楽友協会に出演し、1873年にはウィーン万国博覧会の最中に連夜演奏した人物です。最大楽団員は40名。演目にはヨハン2世らのダンス音楽、オペラ序曲やポプリがあり、さらに彼女自身が作曲した曲もありました。同曲はドレッティ社から1870年頃に出版された『レフォルム・ブレッター』という曲集に収められており、水の精セイレーンが水中から出てくるような曲想です。
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ〈女性の真価〉op.277
Josef Strauss: Frauenwürde. Walzer, op. 277
1870年1月30日に王宮のレドゥーテンザールで開かれた法律学生舞踏会で初演。将来の法律家たちに〈女性の真価〉という課題を突きつけ、当時の女性の地位の低さを訴えたものでした。貴族としても厳しく夫から監視され、デミモンド(裏社会)には妾や娼婦と呼ばれる女性もいました。こうした女性も「女性としての真価」を維持することは可能であり、彼女たちの「認知と尊重の権利」を保障するよう訴えました。この5ケ月後に彼は倒れたため、1871年にシュピーナ社から出版された楽譜を見ることもありませんでした。
ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・フランセーズ〈外交官のポルカ〉op.448
Johann Strauss Ⅱ: Diplomaten-Polka. Polka francaise, op. 448
ヨハン2世はオペレッタ《ニネッタ侯爵夫人》の作曲に取り掛かります。制作に問題はありましたが、初演はアン・デア・ウィーン劇場。1893年1月10日に皇帝臨席のもとで行われ、歓声を浴びました。同曲は中年のメルスブルク男爵に焦点を当てたもの。1893年2月26日、楽友協会の演奏会でエドゥアルト指揮のもと初演。引用された歌詞「私は貴族のように、極めて外交的な口調で話します」から題名が付けられたと想像できます。
フローレンス・プライス:〈レインボー・ワルツ〉
Florence Price: Rainbow Waltz
プライス(1887-1953)はアメリカで最初に主要楽団が演奏したアフリカ系アメリカ人の女性作曲家です。ウィーンとは関係がありません。1933年にはシカゴ万国博覧会の「世紀の進歩展」の一環として彼女の楽曲が演奏されました。同曲の楽譜(手書譜)はアーカンソー大学図書館に保存。1939年10月27日の記入があります。ギャップのある音階、循環的な旋律とコンサート・ワルツでよく見られる他の特徴が融合しています。
ハンス・クリスチャン・ロンビ:〈コペンハーゲン蒸気機関車ギャロップ〉
Hans Christian Lumbye: Copenhagen Steam Railway Galop
ロンビは「北欧のシュトラウス」とも呼ばれます。同曲は1847年6月26日にデンマーク王国の鉄道路線であるコペンハーゲン・ロスキレ間の約30キロの開通を祝って作曲した楽曲です。6月29日にコペンハーゲンのティヴォリ公園内で初演。毎晩のように拍手喝采を浴びました。曲は列車が駅を出てから、次の駅に到着するまでを描写し、汽笛を用いるなど、工夫しています。2006年に同曲は「デンマーク文化規範」に選出されました。
ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ〈南国のばら〉op.388
Johann Strauss Ⅱ: Rosen aus dem Süden. Walzer, op. 388
同曲はヨハン2世のオペレッタ《女王のレースのハンカチーフ》(1880年10月1日)からモティーフを借用。モデルは16世紀のポルトガルのセバスティアン1世。劇で同時代を扱うことはタブーでしたが、彼をみるとオーストリア人は皇太子ルドルフのことを思わずにはいられませんでした。劇の成功にもかからず、1889年の皇太子の自殺で上演されなくなりました。劇の運命とは裏腹に、同曲は典型的なウィーナ・ワルツで、いつも時代も人びとの心に響いています。初演は1880年11月7日の楽友協会でエドゥアルト指揮の演奏会。後にイタリア王ウンベルト1世に献呈。シェーンベルクなどの編曲もあります。
ヨハン・シュトラウス2世:〈エジプト行進曲〉op.335
Johann Strauss Ⅱ: Egyptischer Marsch, op. 335
1869年7月6日(ロシア暦6月24日)に初演。題名は〈チェルケス行進曲〉。コーカサス地方の少数民族チェルケス人を名に冠した曲でした。ところが、11月17日にエジプトでスエズ運河が開通し、ヨーロッパのお歴々が顔を揃えました。その様子を聞いて、ヨハン2世は同曲を〈エジプト行進曲〉と改題。さらに舞台用に仕立て直して、1869年12月26日にアン・デア・ウィーン劇場でビットナーの茶番劇《エジプトへ》とともに初演しました。対象がエジプトへ転じたのは、シンバルを用いたリズムといえるでしょう。
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ〈平和の棕櫚の葉〉op.207
Josef Strauss: Friedenspalmen. Walzer, op. 207
1866年は普欧戦争の年。ウィーンの人びとは夜通し踊りあかす施設も閉鎖しました。シュトラウス兄弟は自分たちらしく社会を明るくしようと考えます。それが11月18日にフォルクスガルテンで開いた「新作慈善演奏会」。ここで、同曲とポルカ〈エチケット〉、兄弟の楽曲が披露されました。シュピーナ社から販売された同曲の初版譜には「棕櫚の枝を手に持ち、遠くを眺める天使」が描かれています。瞑想的な曲でありながら、平和の到来を喜び、ウィーンの暮らしに新たな息吹を吹き込もうとする姿勢が見て取れます。